新聞に残された機能は?

宋文洲のメルマガの読者広場: 大新聞の恥

7人が死亡し、十数人が重軽傷を負うという前代未聞の大事件を朝刊の紙面に載せることができません。報道のプロとして記者や編集者達は相当悔しい思いをしていたに違いありません。何しろ、現場に飛び込んで取材しても新聞そのものが発行されないのですから、そのニュースを流しようがありません。

新聞の機能とはなんだろう?
日本全国にニュースを届ける。
テレビでは受動的にしか受け取れない情報を、能動的に読むことが出来る情報アーカイブ(別名は古新聞ともいう)

ちょっと前までは、貯めるとトイレットペーパーくらいにはなったものだがね。
今でも窓ふきにくらいは使えるか。

新聞を取らなくなって、ずいぶんと経つ。
困るのは近所のスーパーの安売り情報が分からないくらい。
テレビも見ないのだから、さては情報鎖国だなぁと思いきや、ネットがあれば大丈夫。

いな、最近では新聞の必要性を感じてきた。
ネットの場合は、情報の選択がシビヤになる。
見出しが印象的でなければ、読もうという気持ちにもならない。
つまり見出しが強烈な重要なニュースのみにか受け取れずに、些末ながら大切な情報を落としてしまう。
新聞なら、どんな小さな情報でも手元に残るわけで、情報がリーチする可能性も残っている。

つまり、新聞を取ろう。
手元に情報を残そう。
大切な知識に必ず目を通し、社会参加をしよう!

・・・それは新聞が正しい情報ツールであれば。
新聞が伝えようと考える情報が、広く社会的に正しいことであれば良い。
たまの休刊ぐらい良いではないか。
休んでいる間も、ちゃんと正しい情報を伝える機能を残していれば、それは新聞の機能として正しいのだ。

だが、今の新聞にそれができているか?
正しい情報を提供しているか?
新聞は今後2つの方向が求められている。
ひとつは、淡々と客観的な情報を垂れ流し続ける情報の交通網として。
もしくは自らの信念に基づいた主観的な主張だけを垂れ流す思想としての中心核として。
どちらでもないのであれば、今以上に存在理由はなくなっていくと思うのだが。