罪な野次馬、罪のない野次馬

秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界 インターネット-最新ニュース:IT-PLUS

報道と野次馬の境界線。
なるほど、興味深い話だね。
確かに人は報道という言い訳とともにすべてを暴こうとする。
報道だから許される。その行動原理は野次馬根性的な探求心に他ならないわけだけど、それを必然とする理由は実はあまりない。

物事の真実を解明するため?
世の中知らない方が良いこともある。
世論が求めるから?
それってどこの世論だい。

報道を正当化することが社会倫理に基づくものなら、報道が娯楽化してはいけないのだ。
ゆえに娯楽化しない報道を揺るぎなく保つことができないネット上の一個人が報道を気取ってはいけないのである。それは野次馬という暴力なのだから。

・・・って、どうなんだよ。
個人がメディア化した世の中において、報道は野次馬でしかないことを自ら認めるころなのではないか。報道が野次馬であり暴力であることが、報道が報道として一線を越えないセーフラインになるべきだろう。つまり自浄作用を自ら持つことこそ、やっと報道と名乗れるのだと思うけど。

だが最近の報道がネットの焼き直しなのは、どうだろう。
報道におけるスピードが価値だというのなら、すでに末期なのかもしれない。