鞄ひとつに収まる人生か、倉庫いっぱいの無駄か

私がクラウド依存を考え直す理由

かつて、米国政府が私の所有する文書や手紙を入手するためには、直接私を召換する必要があった。外国人である私は、あらゆる手段をもってその要求と戦うことができた ― そして少なくとも応じるかどうかは私の選択だった。米国在住者の一人として、私には合衆国憲法修正第4条に基づく重要な権利もある。さて、すべてがクラウド上にある今、私の個人情報を手渡すかどうかに関する決定権は、ほぼ私の手にはない。そして、Twitterがそうしたように、私のデータを保管している会社が私に代って開示に抵抗しない限り、開示要求があったことさえ、手遅れになるまで私に知らされない可能性もある。これは、フリーな社会のあるべき姿ではない。

クラウド幻想はたぶん流行りのものになるだろう。
いや、便利なのだが所有欲を満たすものかというと少々疑問だからだ。
それで満足するものもいるが、多くの大衆はできない方であろう。
少なくとも比較と検索に埋もれる自身の情報というのは、なにが楽しいんだかと。
まぁ便利なのは確かだが。